2015年04月21日03:50

本土復帰とは敗戦により連合軍側(特に米国軍)に施政権が移った、伊豆諸島、トカラ列島、奄美群島、小笠原諸島、沖縄県が日本に復帰したことを言う。
沖縄県は1972年(昭和47年)5月15日復帰を果たした。
その時に受けた優遇施策はまだ沖縄県の財政を助けていると言っても過言ではないだろう。
■ガソリン税
沖縄県は本土より7円減税されている。この税率は「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」第80条3項に基づく政令により規定されている。しかし沖縄県は「沖縄県石油価格調整税条例」により、ガソリン1リットルあたり1.5円を徴収している。
従って、沖縄県内の相対的なガソリンの減税額は1リットルあたり7円-1.5円=5.5円が優遇されている。
■高速道路料金、航空機燃料税
高速道路料金
沖縄の最南端那覇ICから沖縄最北端許田IC間の高速道路間では本来1,550円料金が掛かる。
がそれを約3割引にし1,000円で走行ができる。

仕組みとしては、国から沖縄県に入る沖縄振興予算のうち、年間約8〜9億円を県からNEXCO西日本に支払い、NEXCO西日本はその資金で通行料金を割引するという形式としている。
航空機燃料税
飛行機版ガソリン税の軽減で1リットル当たり26円が課税が沖縄路線の場合は半額となる。
つまり、かつては26円÷2=13円だったのが、現在は18円÷2=9円となる。
離島においてはさらに4分の3、沖縄県内の離島の場合、現在は18円÷2×3/4=6.75円とかなり軽減されている
■酒税
泡盛は35%の軽減税率、その他ビールなどは20%の軽減税率となっている。
そして毎年上がり続ける基地の借地料と振興予算。
このような優遇施策なぜ行われたのか?
その背景について考察したい。
歴史的背景
1971年8月15日。アメリカ合衆国大統領ニクソンは、ドルと金の交換停止を発表する。ニクソン・ショックが起こった。

それにより日本円は従前の1ドル=360円から16.88%まで切り上げられた。
1970年より沖縄返還として本土復帰をしようとしていた沖縄県はドルから円への通貨交換を控えており最悪の状況に置かれていた。
1ドル360円が305円になると55円目減りとなる。実質本土基準で考えると16%が減るということになる。
またその時代沖縄は生活物資の80%を日本本土からの輸入しており、円切り上げは深刻な物価高に繋がると考えれた。
極秘で行われた密約
このような状況である一人の政治家が現れる。
総理府総務長官・山中貞則氏である。

山中氏は住民が保有するドル紙幣をすべて確認・検印してその額を確認し、預貯金については金融機関の台帳を封鎖したうえで、債務を差し引いた純資産額を確定し、それぞれについて沖縄返還直後の通貨交換時に日本政府が1ドル=360円の交換率を補償する。という密約を琉球政府副主席・宮里松正と交わした。
当時琉球政府は米国政府の下請けの立場であり、米国系の銀行をも含む金融機関の封鎖の権限が与えられているわけではなく、なんらかの理由がなければ、琉球政府の命令に従わせる事は困難と見えた。
また一方で、米国に通告して協力をあおぐ交渉を行えば情報は漏れてしまい、大量の投機ドルが一気に流入し、今計画自体を破壊する可能性があった。
結局の所日本政府側には日本人以外は対象にしない事とし、日銀に600億円から1000億円の損をさせることになるという承諾を佐藤総理から得た。
そしてこの通貨確認は県知事にも秘密にして進めれ無事沖縄県民は元の1ドル360円でドルから日本円へと変更が可能となったのだ。
山中貞則氏という人物について
この方のエピソードは沢山ある
この人物がなぜこうも沖縄に政治家生命を掛けて挑んだか?
それは薩摩藩による1609年の薩摩侵攻にあると言われている。
薩摩藩が掛けた沖縄への負担を山中氏を一人背負い、上記のような大胆な施策に出たのである。
その他にも山中氏は下記のような活動を沖縄にて実施している。
このような形で様々な基盤を沖縄にもたらした政治家に一人である。
私もおじに言われて山中氏を初めて知ったのは20代半ばだった。
うるま市の海中道路や石油基地もこの人のお陰だと。
ちなみにうるま市勝連町の最初の名誉町民ともなっており銅像もある。

今何気なく受けている様々な優遇措置は、40年前に一人の政治家が力添えとなり命を掛けて米国・日本政府を相手に戦ったという事実は同じ歴史として忘れてはいけない事だと感じた。
1972年の沖縄県の本土復帰の際の出来事
カテゴリー │沖縄の経済について

本土復帰とは敗戦により連合軍側(特に米国軍)に施政権が移った、伊豆諸島、トカラ列島、奄美群島、小笠原諸島、沖縄県が日本に復帰したことを言う。
沖縄県は1972年(昭和47年)5月15日復帰を果たした。
その時に受けた優遇施策はまだ沖縄県の財政を助けていると言っても過言ではないだろう。
■ガソリン税
沖縄県は本土より7円減税されている。この税率は「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」第80条3項に基づく政令により規定されている。しかし沖縄県は「沖縄県石油価格調整税条例」により、ガソリン1リットルあたり1.5円を徴収している。
従って、沖縄県内の相対的なガソリンの減税額は1リットルあたり7円-1.5円=5.5円が優遇されている。
■高速道路料金、航空機燃料税
高速道路料金
沖縄の最南端那覇ICから沖縄最北端許田IC間の高速道路間では本来1,550円料金が掛かる。
がそれを約3割引にし1,000円で走行ができる。

仕組みとしては、国から沖縄県に入る沖縄振興予算のうち、年間約8〜9億円を県からNEXCO西日本に支払い、NEXCO西日本はその資金で通行料金を割引するという形式としている。
航空機燃料税
飛行機版ガソリン税の軽減で1リットル当たり26円が課税が沖縄路線の場合は半額となる。
つまり、かつては26円÷2=13円だったのが、現在は18円÷2=9円となる。
離島においてはさらに4分の3、沖縄県内の離島の場合、現在は18円÷2×3/4=6.75円とかなり軽減されている
■酒税
泡盛は35%の軽減税率、その他ビールなどは20%の軽減税率となっている。
そして毎年上がり続ける基地の借地料と振興予算。
このような優遇施策なぜ行われたのか?
その背景について考察したい。
歴史的背景
1971年8月15日。アメリカ合衆国大統領ニクソンは、ドルと金の交換停止を発表する。ニクソン・ショックが起こった。

それにより日本円は従前の1ドル=360円から16.88%まで切り上げられた。
1970年より沖縄返還として本土復帰をしようとしていた沖縄県はドルから円への通貨交換を控えており最悪の状況に置かれていた。
1ドル360円が305円になると55円目減りとなる。実質本土基準で考えると16%が減るということになる。
またその時代沖縄は生活物資の80%を日本本土からの輸入しており、円切り上げは深刻な物価高に繋がると考えれた。
極秘で行われた密約
このような状況である一人の政治家が現れる。
総理府総務長官・山中貞則氏である。

山中氏は住民が保有するドル紙幣をすべて確認・検印してその額を確認し、預貯金については金融機関の台帳を封鎖したうえで、債務を差し引いた純資産額を確定し、それぞれについて沖縄返還直後の通貨交換時に日本政府が1ドル=360円の交換率を補償する。という密約を琉球政府副主席・宮里松正と交わした。
当時琉球政府は米国政府の下請けの立場であり、米国系の銀行をも含む金融機関の封鎖の権限が与えられているわけではなく、なんらかの理由がなければ、琉球政府の命令に従わせる事は困難と見えた。
また一方で、米国に通告して協力をあおぐ交渉を行えば情報は漏れてしまい、大量の投機ドルが一気に流入し、今計画自体を破壊する可能性があった。
結局の所日本政府側には日本人以外は対象にしない事とし、日銀に600億円から1000億円の損をさせることになるという承諾を佐藤総理から得た。
そしてこの通貨確認は県知事にも秘密にして進めれ無事沖縄県民は元の1ドル360円でドルから日本円へと変更が可能となったのだ。
山中貞則氏という人物について
山中 貞則(やまなか さだのり、1921年(大正10年)7月9日 - 2004年(平成16年)2月20日)は、日本の政治家。鹿児島県囎唹郡末吉村深川(現曽於市)出身である。
衆議院議員(17期)、沖縄開発庁長官(初代)、防衛庁長官(31代)、自由民主党政務調査会長(23代)、通商産業大臣(43代)などを歴任した。称号は沖縄県名誉県民、竹富町名誉町民となっている。
税制のスペシャリストとして、長年にわたり自民党税調に君臨し、「税調のドン」と呼ばれた。ニックネームは「ヤマサダ」「ヤマテイ」、あるいは有職読みで「テイソク」とも言われた。
ウィキペディアより引用
この方のエピソードは沢山ある
・県議会議員の選挙では馬に跨って街宣していた。
・国会初登院時の服装は、アロハシャツだった。
・一年生議員の頃は名を上げるため積極的に先輩議員を殴り、時には本会議場入口で待伏せしていた。当時の吉田茂首相に会釈したが無視された時に、「こら待て吉田、なんだその態度は」とあわや乱闘になろうかという騒ぎを起こした。
・大蔵政務次官就任後の初登庁時に紋付羽織袴で乗込み、職員たちを驚かせた。
・防衛庁長官時代、74式戦車の名前を「山中式戦車」にしてくれと装備局に頼むも却下された。
・中曽根康弘よりも年少、かつ当選回数も少ない後輩であったが、中曽根のことを死ぬまで「中曽根君」と呼んでいた。晩年には、「中曽根元首相を君付けで呼ぶ唯一の人物」となっていた。中曽根内閣当時、税制改革に関して中曽根をバカ、マヌケ呼ばわりしたこともあった。
・首里城の復元工事を推進し、選挙区でもない沖縄のために683本の特例法を通した背景には、鹿児島県出身者としての薩摩藩の琉球支配への贖罪意識があったという。
・消費税導入の議論を党税制調査会でする際には冒頭で「今日から消費税の議論をする。全員落選の覚悟で議論しろ」と述べた
・1990年の総選挙では、消費税問題の逆風、同じ選挙区の二階堂進が政治力を大きく低下させていたことによる「自民党で落ちるのは二階堂」というムードの影響で、県連が山中より二階堂にてこ入れしたため、最下位当選の有川清次に28票差で落選。しかし、「消費税を通す犠牲になった」ということになり、1993年の国政復帰後の発言力は、むしろ増大した。
・税制調査会では会長退任後も最高顧問として事実上の最高実力者であった。森内閣の頃には、自公保三党と関係閣僚が合意した経済対策が、税制の部分に山中が同意しないことを理由にストップしたことすらあったという。
この人物がなぜこうも沖縄に政治家生命を掛けて挑んだか?
それは薩摩藩による1609年の薩摩侵攻にあると言われている。
薩摩藩が掛けた沖縄への負担を山中氏を一人背負い、上記のような大胆な施策に出たのである。
その他にも山中氏は下記のような活動を沖縄にて実施している。
■沖縄の各島に足を運ぶ
復帰で最初に担当した時に最初にぶつかったのが軍労働者の解雇問題だった。また沖縄には48の有人離島がある。離島のまた離島にしか分からない問題がある。
離島に行き「償いの使者だから何でも要請してくれ。陳情はいらない」と話す。
通訳を入れ島のおばさんたちに「大臣と言う動物を聞いたことがあるか。それが私。同じ人間でしょう」と言うことから始まって握手する。最後はカチャーシをやった。
粟国島では港から役場までの道路舗装の問題、伊平屋では架橋を約束した。
村長は「今の話は本当ですか」と涙を流していた。
2件しか住んでいない宮古の水納島に電気と水道を通したことがある。
日本の普通の国民が受ける権利を保証してあげるべきだと主張して、採算を度外視して引いた。
どの離島でも石油が岸壁に着いた時、那覇の港と同じ価格になっている。これはガソリン税の中から離島に送る経費を使っていいことにしたからだ。
(琉球新報より引用)
■海底送水
西表から黒島まで送水管を引っ張った。
日本の鉄鋼業界がどこも手を挙げない。それでみんなを集めて「だらしない」と言った。
実は水圧、水流、流砂の摩擦で鋼管がすれる。距離が長いしだれも自信がない。
後で日本鋼管の社長が社運をかけてやると言ってきた。こうして不可能と思うことを突破してきた。
最近米軍基地の問題で橋本総理が「沖縄についてはやらなさすぎた」という発言に、「竜太郎、無礼なことを言うな」と言った。補助の特例だけでなく、税制の特例からたくさんの特例をつくってきたことを話した。
(琉球新報より引用)
このような形で様々な基盤を沖縄にもたらした政治家に一人である。
私もおじに言われて山中氏を初めて知ったのは20代半ばだった。
うるま市の海中道路や石油基地もこの人のお陰だと。
ちなみにうるま市勝連町の最初の名誉町民ともなっており銅像もある。

今何気なく受けている様々な優遇措置は、40年前に一人の政治家が力添えとなり命を掛けて米国・日本政府を相手に戦ったという事実は同じ歴史として忘れてはいけない事だと感じた。